パリ展報告

京都・パリ友情盟約都市提携50年・日仏交流150年記念
L'ART de KOGEI l’esprit de Kyoto,Japon
京都工芸芸術の精華

「作家集団 工芸京都」パリ展観 開催要項 (2008/05/07)

会期
2008年11月17日(月)~12月8日(土)
会場
Espace Bertin Poirée
8~12 Rue Bertin Poirée 1e 75001 Paris
パリ市1区ベルタン・ポワレ通り8~12番地
主催
「作家集団 工芸京都」
後援
京在仏日本大使館・都市・京都府・関西日仏学館・京都商工会議所・源氏物語千年紀委員会
協賛
資金及び開催に必要な資材・労力・便宜を提供されるすべての組織・機関・団体・企業・個人
特別協賛
SGホールディングス株式会社 佐川急便株式会社
展示作品
「作家集団 工芸京都」結成とパリ展観の趣旨に賛同する、京都在住または京都を主な活動の場とする美術工芸作家の有志の美術工芸作品約50点
実行委員
伊砂利彦(染色)=集団代表、新匠工芸会代表、フランス文化芸術シュヴァリエ章受章
今井政之(陶芸)=日本芸術院会員、日展常任理事、集団代表代行
加藤忠雄(金工)=日本工芸会正会員、京都工芸美術作家協会理事
河合誓徳(陶芸)=日本芸術院会員、日展顧問
鈴木雅也(漆芸)=日展評議員、京都工芸美術作家協会顧問
村山明(木工)=重要無形文化財保持者、日本工芸会木工部会長・理事
塚本樹(評論=事務局長)美術史学会会員、京都日仏協会常任理事
開催趣旨
2008年は、京都市がパリ市と「友情盟約都市」として提携して50年になり、同時に日仏友好通商条約が結ばれて150年になる。この機会に、その実力に比して西欧で知られていない京都の工芸を発信し、京都の工芸美術全体と参加作家個人のステータスを高めると共に、西欧の工芸界に刺激を与え、交流の促進を通じて相互の文化の向上を図り、あわせて京都からパリに対する友好のメッセージとする。この催しを通じて文化だけでなく、政治・経済をはじめ、市民生活のあらゆる分野での交流の拡大を期する。
組織
「作家集団 工芸京都」は、上記の目的を達成し、将来の京都美術工芸の国際化を推進するため、上記7人によって立ち上げられた。趣旨とパリでの展覧会開催に賛同し参加する有志作家を同人とする。発起人は展覧会の実行委員とする。(全同人名簿は別紙)


「工芸京都」パリ展観準備 調査報告


パリでの展観について、事務局長が2007年6月26日から7月16日までパリに滞在し、可能性と現地の事情を視察・取材した。
視察・取材したのは主に7月10日から16日まで、パリ日本文化会館から京都市を通じて推薦があった3箇所の会場候補を検分し、それぞれ管理者と話し合った。また、現地の陶芸家、画家、出版編集者、画廊経営者らとも数回会談、市中で行われている各種の展覧会を見て回った。
その結果、パリでの展覧会事情は、日本と大きくかけ離れていて、展観を行うならパリでの事情に合わせて行わなければならないと痛感させられた。


◆会場の検分
会場候補は①「日本文化会館」Maison de la Culture du japon à Paris②Association Culturelle Franco -Japonais de TENRI ③Centre Cuuulturel Franco- Japonais Espace Hattoriであり、①は国際交流基金の施設であり、準国立といえる②は天理教の活動センターである。ただし宗教色は極めて薄く、展覧会に使用するスペースは所在地の名を取りEspace Bertin Poiréeと称する。③は個人により運営されているが、パリの文化関係者での知名度は②よりも高く、EUのパリ事務所が発行しているパリ地図には、所在地が表示されている。
この3者のうち、①の展示会場は国際交流基金が主催する催し専用で、それも09年上半期までは事業が決定している。貸し会場と言えるスペースはあるものの、地下3階の多目的ホール脇の三角スペースで、広さは100㎡未満である。担当の望月事業局次長は大変京都に造詣が深く、かつ京都の文化を愛していて、好意的ではあったが「どうしてもとおっしゃるなら別だが、高名な諸先生の作品を展示するには気が引けて、お受けしかねる」とのことであった。また、陳列台や照明が不完全で、借り物をしなくてはならないが、それらを地下3階まで運んでセットするには、多大の人件費がかかる。そして展示できる点数は精々20点が限度である。従って、ここは断念せざるを得なかった。
②と③はそれぞれ長所と短所がある。何を長所とし、短所とするかは価値観によって違うが、以下見たまま聞いたままを列記する


▼会場の立地条件
②は1区の東端に近いRue Bertin Poiréeにある。リヴォリ通りとセーヌ川を結ぶ道の一つで、メトロの線が集中する「シャトレ」Chatlet駅から徒歩1分。大通りに面しているのではないから、通行人の往来が盛んとはいえないが、パリのド真中であり、際繁華街に近く、展覧会を見に行こうという人にとっては、他の用事のついでにでも来られる利点がある。
③11区のナシオン広場から徒歩約5分の“路地”(passage)にあり、少々分かりにくい。ナシオン駅は3本のメトロ主要路線(1・2・6番線)が集まっているが、近くにこれと言っためぼしい人が集まる施設はなく、立地条件としては②に比べかなり劣る。
ともに自動車での来場は無理である。これはどんな美術館・博物館・ギャラリーでも同様である。パリ市中には、一部に地下駐車場があるが、日本のような公衆駐車場はほとんど無い。多くは路上駐車である(指定区域以外は駐車禁止ではない)。


▼会場の状況
②展示場は、地下1階(地下は1階のみ)の大1、中2、小14室で合計約200㎡。センターの施設の大部分を占めている。地上1階の大半は日本文化の図書室と、日本語などの教室になっている。展示会場へ行くには建物の正面入り口から入って、突き当りの受付を通過、小さなロビー脇の階段を降りたところの中規模展示室を中心に鍵の手のように連結している。壁面はすべて、昔ながらの石壁だが、中・小の3室石床であるのに対し、大きな展室は多目的ホールであり、フローリングである。
③は1階と2階に展示室があり、二つで約170㎡。照明は完備しているようだ。かつてバスティーユ広場近くに多かった木工業者の工房を移築したもので、木造2階建てのパリでは珍しい建造物。それが知名度を高くしている、原因の一つになっている。2階展示場は現在改装中で、今秋再開される。1階の展示スペースは多目的スペースで、広さは2階展示バスペースの半分弱。細長い舞台がある。2階に行く階段は、正面入り口から入って昇る狭く急な螺旋階段であり、建物の横手から入る広い階段もあるが、勾配はが急で1段の歩幅も狭く、障害者はもちろん、高齢者にはアクセスしにくい。


▼その他の条件
②③とも展示場が分かれるので、監視人を置くなら2人以上置かなくてはならない。③は監視人をおかなければ、1階の入場者はノーチェック状態になる。特別なイヴェントがない限り使っていないから普段は問題ないが、使用する場合は、何らかの対処が必要。
その点②は建物に入るのは自由だが、入り口の突き当たりに受付があり、日本人の職員が常駐している。展覧会の鑑賞者はその受付の前を通り会場に行き、また退場は同じコースを逆行しなくてはならないから、入場者のチェックはできる。ただし、来館者の応対など他の仕事もあるから、チェックは100%と言うわけには行かない。展示場はつながっているとは言え、4箇所が独立した格好になるから、監視人を1人にするなら、どこに置いても死角は出る。しかし、配置場所を工夫すれば、大部分はカバーできる。
両者とも事故・事件があった例はない。市中の画廊でも盗難があったという話は聞いたことが無いと、パリ在住の画家は話している(もっとも有名作品か大量の盗難でもなければ、話題にならないのかとも考えられる)。
③ははヨーロッパ連合などとの関係で、PRなどに関してはその方面の協力を得られやすいかと思われる。スタッフはフランス人で、母親が京都の人だというお嬢さんは多少日本語を話せる。②の職員は少なくともフロントスタッフは日本人であり、もちろんフランス語は堪能である。何か依頼するには、こちらが断然手間がかからない。
②は、展示は会場側で行うのが原則になっている。これは労務管理上からで、会場側の好みで陳列すると言う意味ではない。つまり、契約の作業員の作業量管理の問題によるもので、出品者側が自主展示を行うと作業員の報酬を得る機会を削減すると言うことが、根底にあると考えられる。ユニオンの強いフランスとしては当然のことか。
②は時前に “図上作戦” 出大体の配置を決め、実際は微調整しながら陳列するという案を示している。
③は自主陳列も可能だが、階段の事情を考えれば作業員を雇わざるを得ず、人件費は多額になると思われる。
③の代表者服部祐子(さちこ)氏は、パリの文化団体や組織に顔が広く、我々のプロジェクトが実現すれば、パリの工芸作家の組織とコラボレーションしたい意向をもっている。ただし、具体策は今後のプロジェクト展開次第である。
②の展示会担当の九鬼恵依子氏は、かつて京都で工芸関係の仕事をしていたことがあるといい、その方面の知識は深いと見受けられた。
②は③よりも明るい感じ。③は落ち着いた雰囲気がある。


◆パリの展覧会事情
パリの大展覧会場、あるいは国公立の美術館博物館が、外部の団体などに会場を貸して展覧会が開かれる事は、絶対にあり得ない。だいたい、館の施設・設備を外部に貸すと言う考えが、存在しないと言ったほうが良いだろう。仮に日本国政府なりが展覧会開催を申し入れても、主催名義と主導権は会場側が保有する。例えば、1997年にルーヴル美術館で開かれた「百済観音」の展示は日本側の組織関係者として文化庁・国際交流基金が名を連ねているものの、主催者は厳然としてRéunion des Musée National (フランス国立博物館連合)であった。こうした事実は、今回訪ねたいくつかの美術館の職員らの話からも確実である。
また、その博物館・美術館主催の展覧会であるが、全館使っての大展示などはあり得ない。ほんの一部を使っての展示である。今回のパリ滞在中にも、オルセー美術館では展示スペースの一部を割いて「セザンヌからピカソまで」という、日本の美術フアンなら、飛びつきたくなるような展覧会を開催していたが、入場者はごく少数だった。これは館自体が観光客の集積場みたいなものだから、別料金を払ってまで見ようと言う人は稀だといえよう。同様にカルナヴァレ博物館でも、Willy Maywaldと言う人の写真で19301年から55年までのパリを回顧・紹介する大展覧会を開いていたが、博物館自体の入館料は不要なのに、この展覧会は別料金を取るためか、7月11日午前11時ごろの入場者は、たった1人であった(つまり塚本だけ)。この二つの展覧会は、共にかなり派手な宣伝をしており、ことに後者はメトロ各駅のホームや通路には、大型ポスターが少なくとも4枚は貼られているが、この有様である。
グランパレで、巨匠の没後(生誕)××年記念などという大展覧会が開かれる事があるが、グランパレは全体が催事場であり、美術館ではないが、これとて全館を使うわけではなく、もちろん主催者は公共団体で自主企画である。たまたま、日本の新聞社などがパリの国公立施設を使って、日本美術の展覧会をすることがあっても、それは日本が施設を借用してやるのではなく、現地の公共団体などとの“取引”のうえで行われるので、新聞社が現地で主催するわけではない。
同時に、パリ市民は宣伝や会場によって、展覧会の質や権威を測ること事は、先ず無いと言ってよい。これは先にあげたオルセー、カルナヴァレの例でも分かる。美術とは違うが「パリでルイ・ヴィトンやシャネルなどの(いわゆる“世界的”な)ブランドものを持っている人は、ほとんどが顔立ち・言葉・服装などで、明らかに旅行者と分かる人たちだ。パリジャン・パリジェンヌには、ものを買うにもそれぞれ自分の贔屓の専門店があり、流行や他人の意見に左右されない。そして、何が自分の気に入るものかを嗅ぎ分ける、嗅覚のようなものをもっている」というのは、パリの出版編集者サミュエル・プチ君の言である。だから実質でもって、どれだけパリジャンにアピールするかが問題で、具眼の鑑賞者に来てもらえるよう、PRの方針と手段を定めることが大事だと言う。
パリで目に付いた展覧会の例をいくつか紹介すると、先ずマレ地区にあるスウエーデンの国立の文化センターで開催されていた、スウエーデンのおもちゃの歴史と現状を紹介する催しが秀抜だった。センターの企画で、会場は歴史的建築物である本館の中庭に作られたプレハブ様の平屋で、面積は150㎡ぐらい。壁面はすべておもちゃの歴史を示すパネルで埋められ、その前の奥行きの狭い展示台に参考資料を並べ、中央の島状の広い展示台に現在生産されているおもちゃを並べると言う簡素なものであった。参観者は本館のスウエーデン文化紹介の資料を調べに来た人たちが中心で、さして多くないが熱心に見て、写真やメモを取っていた。センターは繁華街に面していないが、通りすがりの人も、結構入場していた。もちろん無料である。
絵画展では、リュクサンブール美術館(上院の西隣)脇の、これまた平屋の簡素な建物の会場で、どんな集団なのか分らないが、グループを名乗った展覧会が開かれていたのが、比較的規模の大きいものだった。200㎡ほどの飾りも何も無い会場の壁面に約50点が無造作に、ずらずらと展示されていて、鑑賞者は何人ずつかがいくつかの群れになって、作品の前でかなり熱心に合評会のような議論?をしていた(よく分からないが、作家と鑑賞者の対話だったようだ)。
厳密には展覧会とはいえないかも知れないが、名刹サン・シュルピス教会の前庭(かなり広い。1000㎡くらいか)には、露天のような小屋がけで、陶芸の作品展示が行われていた。小屋の数はおよそ30ばかり。各人が展示台を持ち込み、20点程度を陳列している。聞くところでは、フランスでは一流の作家が集まっているそうだが、全作品を収容できる施設がないのと、短期間(7月7・8日の週末の2日間)なので、オープンエア展観にしているという。即売も主要な目的でだが、自分のPRにも抜け目なく、それぞれ作品の絵葉書を作って、作品に見入っている人に漏れなく配っていた。この展示は雨もよいなのに、結構賑わっていた。パブリシティをどのようにしたかについては、通訳の言うところでは、新聞に予告が出たのだと言う。その新聞が何と言う新聞で、どの程度の記事だったのかは不明(説明はあったようだが、言葉がよく分からなかった)。
以上のことから、パリでの展覧会は、とにかく人数が入ればいいというのではなく、見てくれることが主催者にとって利益をもたらす人に見てもらえればいいのであって、極端なことを言えば、画商なら絵を買ってくれる人か、世間の話題にしてくれる人(例えば新聞記者)に見てもらえばよいのである。そして展覧会の格付けや、成功したかどうかの判定は、会場の性質や単なる鑑賞者の数というよりも、展示の内容と、どのような人の関心を集め、どれだけの評価を得られたかにかかっていると言えよう。その評価が、以後の対象への価値判断の基準になる。たまたま、ベルネーム・ジュンのような大画商に見出され、そこで個展を開くことができたとしても、世評が伴なわなければ何の意味もなく、逆に場末の画廊でやっても、世間に認められれば大きく羽ばたくことができる。そしてパリでは、ベルネーム・ジュンで個展を開いたことが、即勲章になるほど甘くは無い。日本のように美術館や画廊を規模や設置者の“肩書”で格付けし、高くランクづけされた美術館で行われる展覧会は無条件で立派な展覧会だと、主催者も観客も思い込むのとわけが違う。
一概に、フランスが正しく日本がおかしいとは言えないが、よく考えなくてはならない。またパリで展覧会をやるなら“郷に入らば郷に従う”ことも必要だろう。


◆パリで見た工芸作品
時期的に適当でなかったのか、パリで画廊の個展などは、活況を呈していなかった。左岸のセーヌ通りやヴィスコンティ通りの画廊密集地でも“通常陳列”のところが多く、いわゆる“装飾芸術”の展示は皆無だった。しかし、陶芸に関してはEspace Bertin Poiréeでは、地方の女流作家の個展が開かれており、サン・シュルピス寺院前の“陶器市”を見ることができた。感想は、実用器具の中には多少面白いと受け止められる作品はあっても、全体を通観すれば、いわゆる1980年代までに“前衛陶芸”とかクレイ・ワークとか呼ばれたのようなものが多く、フォルムは剛健というより荒々しさだけが目に付き、デリカシーに欠け、技法的にも洗練されたものは無く、何よりも造形に対する発想が貧困であるように思われた。これは、技法と技術の貧困さによるかと思われる。Espace Bertin Poiréeで2005年に行われた、フランス在住の日本人を含む9人の作家の展覧会が行われ、図録が作られているが、日本で作陶を学んだという人もいるが、学んだ場所は越前であり、作品そのものは図録で見る限りカルチャー・センターの陶芸教室の優等生程度のでき。趣味の域からさほど抜け出しているとは思えない。これは意識の問題だろう。“上には上”があることが分っていないこともあるが、優れた作品を見る機械いに恵まれないいことに、大きな原因があると思われる。
陶芸以外の工芸の新作は、全く見受けられなかった。日本ならば美術工芸としても制作される、花瓶などは、インテリアの店先に並べられているだけで、出川直樹の言う“まがい物民芸” (柳宗悦が言うところの民芸とも違った)の西洋版みたいなものばかりである。「ギャラリーためなが」のMORITA KAZUTO氏の話では「染色とか金工とかいったものの作品展は聞いたことが無い」との事だった。


◆その他
出品された作品を基本に、京都の工芸の歴史を紹介する出版の可能性がある。前出のプチ君は京都をと江戸時代を愛する青年だが、京都の江戸時代以来の工芸の流れを追う書籍を出版したいそうで、その流れの終結に今回展観の作品を京都工芸美術の代表として置きたい意向を持っている。ただし、この計画は、来年に予定される彼の昇進が実現してからのことになる。

パリのL’Art de KOGEI, l’esprit de KYOTO 展総合報告

事業企画の発端 「作家集団 工芸京都」の結成    

委員会結成時には、グループに確定した名称は無く、便宜上「パリ展実行委員会」としていたが、2006年11月4日に開かれた実行委員会で、各委員が同志として共に行動できる作家5人を推薦し、参加の呼びかけに応じた者で組織を立ち上げることを決定したに際し、呼びかけの主体としての名称を「作家集団 工芸京都」とすることにした。
京都の工芸作家の団体であることを、ストレートに伝達するためで、抽象的または象徴的な名称では外国人はもちろん、日本人にもどんな団体であるか理解されにくい。また工芸KOGEIを世界共通語にしようという考えによるものでもある。「作家集団」とはいわゆる会派でなく、同志的結合であることを示している。代表には伊砂利彦を選んだ。
2007年3月までに35人の作家が推薦された。実行委員以外の作家・学識経験者からも推薦があり、延べの総数は58人に達した。しかしこの段階では、パリでの展覧会の期日・会場など重要なことが決まっていなかったので、被推薦作家への呼びかけ行われず、アクションが実際に始まったのは、会場が決定した同年10月からだった。呼びかけに応じたのは所属会派や専門分野を超越した、京都文化発信に意欲を持つ16人で、後に2人が自主的に加わった。メンバーの専門分野の内訳は陶芸7人、染色2人、漆芸3人、金工3人、木工2人、ガラス1人。京都文化としての工芸の内容と質の高さを示すには、申し分ない配分と顔ぶれになった。参加者は下記の人たち。(50音順。肩書きは2008年11月現在。大学講師は非常勤を含む)

伊砂利彦(染色)新匠工芸会代表 沖縄県立芸術大学名誉教授
今井眞正(陶芸)日展 廣島市立大学非常勤講師
今井政之(陶芸)日展常務理事 日本芸術院会員
角田誠治(木工)日本工芸会正会員
加藤丈尋(陶芸)日展 京都工芸美術作家協会会員
加藤忠雄(金工)日本工芸会正会員 
河合誓徳(陶芸)日展顧問 日本芸術院会員
河野榮一(陶芸)日展会員 奈良芸術短期大学教授
清水六兵衛(陶芸)無所属 京都造形芸術大学教授
小泉武寛(金工)無所属 京都金属美術研究会副委員長
志村光広(染色)無所属 京都府立大学名誉教授
鈴木雅也(漆芸)日展評議員 京都美術工芸作家協会理事長
徳力竜生(ガラス)日展 京都工芸美術作家協会会員
伯耆正一(陶芸)日展出品依嘱 
向井弘子(金工)日展会友
村田好謙(漆芸)日展無鑑査 京都精華大学講師
村山 明(木工)日本工芸会理事 重要無形文化財保持者(人間国宝)
望月重延(漆芸)新匠工芸会会員 京都市立芸術大学美術学部長

準備活動の開始

展覧会に向けての本格的な準備活動は、2007年6月から本格的に始まった。
6月下旬に事務局長が京都日仏協会主催のゼミナール「パリ雑学プロムナード」受講者有志による見学旅行を引率渡航した折に、一行の帰国後も留まって、あらかじめ情報収集しておいた候補会場を検分し、現地の展覧会事情を調査した。
会場候補は3箇所であるが、そのうちの一つである日本文化会館の展示場は、所有者である国際交流基金が主催・共催の事業のみの使用が原則であり、わずかに“貸しギャラリー”的に使われているスペースは、狭い上に照明等の設備が不十分であり、隣接するホールの入退場者で、作品が不慮の事故にあう恐れもあり、まず除外された。
他の2箇所はそれぞれ特色があり利点もあるが、多少の難点も無いでもなかった。
それゆえ、両者の詳しいデータを集め、集団同人の意見を聞き、最終的には多数決で、パリ市1区ベルタン・ポワレ通り8~12番地の天理日仏文化協会内、エスパース・ベルタン・ポワレEspace Bertin Poiréeに決定した。
会期は準備期間を長く取ることと、会場側の賃貸予約の状況を勘案して、2008年11月17日から12月6日までの3週間に決まった。フランスでの同種・同様規模の展覧会としては期間が短いが、会場使用予約が詰まっていたのと、仮に空いていたとしても、3週間以上の開催は経済的に困難であるため、断念せざるを得なかった。なお、パリで国公立の美術館・博物館を借りて展覧会を開催することなどあり得ない。日本の文科省や新聞社などの行う展覧会も、日本側の企画に乗って美術館・博物館が自主的に行う形になり、日本側は共催に名を連ねるに過ぎない。また、私立美術館での開催は、多額の費用が必要だ。
会場・会期が決定したので、具体的な開催要項(別項参照)を作成し、実行委員から推薦されていた作家に参加を呼びかけると共に、各方面に後援・協賛・支援・協力のお願いすることにした。同時に、仮の予算を編成したが、最大の問題は作品輸送にどのぐらい費用がかかるかということだった。1作家が3点ずつ出品すると想定して、作品が2008年2月ごろまでにそろえば、船便で送っても開幕までには十分間に合うから、低価格で送れる。また作品が小さくて重くなければ郵便小包で送る方法もある。このやり方の安全性は事務局長が2007年に渡仏した際に、試みに陶器・ガラス計12点を丁寧に梱包してホテル宛に送り、すべて無事到着したことで確認している。この方法なら、会場費、会場側へのPRやレセプション開催などの業務委託費と合わせても約200万円で済み、集団同人の拠出金に、いくらかの上積みをすれば、とにかく開催は可能である。しかし展覧会の内容を充実させるには、できるだけ多くの資金を集めなくてはならない。その一方法として、国際交流基金の助成を申請することにし、現地法人の天理日仏文化協会に実務を依頼した(結果的には受理されなかった。京都市からの経済的助成が無いのが大きな理由の一つである)。
以後、準備が進行して、展覧会の内容を高める各種のアイディアが出され、規模が拡大する傾向を見せるたびに“資金調達”に苦労することとなる。

パリ展への調査

展覧会開催の本格的活動は、2008年2月10日の全体会議で始まった。全体会議は、その後11月まで毎月定例で行われ、さしあたっての行動の確認や、準備の進行状況の報告などが行われた。また伊砂利彦が前年末からガンの予防的治療のため入院したので、代表代行に今井政之を選び、今井はパリ展開催に当たっては、代表として活動し(事実上の複数代表制)この状態は現在も続いている。
同人各人が分担する仕事として①図録の発行②国内披露展③展示計画が柱となり、それぞれチームが作られたが、一人一人は図録に載せる協賛広告を取ることになった。全体の統括は、今井政之と村山明が、フレキシブルに対応した。
図録の製作は、経験豊富で優れた技術を持つということから、ニューカラー写真印刷に依頼、巻頭言は門川大作京都市長、作家紹介は元京都新聞編集委員・藤慶之が執筆、ほかにエッセー3編を掲載した。
後援はパリとの友情盟約都市としての京都市、京都工芸美術家協会の事務局を受け持っている京都府をはじめ、関西日仏学館・京都商工会議所・源氏物語千年紀委員会、そして在仏日本大使館から受けることになった。これら諸機関・団体は、源氏物語千年紀委員会を除いて、それぞれ相応の協力があり、特に京都商工会議所からは助成金の交付があった。
後援団体の交渉は事務局が当たったが、京都新聞への報道面での支援要請、SGホールディングス(佐川急便)への作品輸送依頼には、随時今井政之・村山明・鈴木雅也を中心に事務局がサポートした。
海外の諸機関・団体への交渉連絡は、すべて事務局がEメールでしたが、語学力不足を痛感させられた。単にフランス語に長じているだけでなく、日本語にも造詣が深く、日本語の微妙なニュアンスを的確に相手に伝える語学力が必要で、そうでないと相手方、ことに作家と心のこもった交渉は難しい。(この点、日本で主に文章の翻訳をしてくれた婦人、パリ展で会場に詰めて観客の応接・会場監視に当たってくれた在留邦人とも、高い能力の持ち主だったが、美術についての知識は必ずしも十分でなく、翻訳・通訳が上滑りになりがちな傾向があった。しかし、やむを得ない事である)。
そのような状況下で、内外に事務局が発信した書簡・ファックス・Eメールの総数はPR文書も含めて1000通に及んだ。来・着信は500件余であり、これも事務局でさばいた。なお、事務局の常勤は局長一人であり、場合により単純作業をボランティアや、交通費程度の謝礼で協力してくれる有志の方々に手伝ってもらった。その延べ数は14人である。
協賛広告は33件の出稿があり、別に資金贈与が2件あり、総額は2,200,000円に達し、図録制作費とパリでの会場費・業務委託費が支弁できたが、すべて同人の個人的な“コネ”によって集められた。
このように作家が大きな目的のため、所属会派を超え、自腹を切り、なおかつ資金調達して事業を完遂させるため積極的な活動をしたのは、京都美術界では類例の無いことである。

後援・協賛の要請

文化事業はどんなものであれ、完遂させるには主催者の独力でできるものではない。大なり小なり“世間”の支援・協力が必要だ。
当集団は、金・汗・智恵を提供してくださるすべての機関・企業・団体・個人をすべて「後援者」と考えるが、文書に記載する場合はそうは行かないようで、ことに公の機関の援助はほとんど例外なしに経済的な支援のない名目後援で、申請して許可または承認を受けなくてはならない。それでも名義的・形式的後援を得ようとする企画が多いのは、一種の“箔付け”である。
当集団では、名義後援であるにせよ、何らかの形で汗または智恵の提供を期待して、京都市・パリ市友情盟約締結の一方の当事者である京都市、京都工芸美術家協会の事務局を受け持っている京都府、京都にあるフランス政府機関である関西日仏学館に後援を申請、それぞれ承認され、応分の智恵または汗の提供があった。この後、駐仏日本大使館と京都商工会議所に後援を申請し、前者には現地でのPRに力があり、後者には助成金の交付を受けた。他に2008年は源氏物語千年紀というので「源氏」のフランスでの普及との相乗作用を狙って、源氏物語千年紀委員会との協力したならばどうかと言うサジェスチョンが委員会関係者からあったので、こことも協議して後援に加わってもらったが、実効は全くなく、当然フランスでの「源氏物語」の普及活動も行われなかった。外務省関係では、地元選出議員の好意的な仲介で、在仏大使館と連携がスムーズに行われた。
また、外務省・文化庁・在日フランス大使館とも、外国での事業は後援しない方針だと言うことで、申請は打診の第一歩で断られた。いかなる考えに基づいての事か不明だが、これでは民間の、特に“草の根”の文化交流は著しく阻害される。特にフランス大使館の電話で対応に出た女性の言では、フランスにおける展覧会開催に有益な情報やノウハウの提供や、現地の諸機関・団体等への紹介などもしないとの事であった(これは大使館の方針なのか、対応に出た女性の独断なのかわからない)。
こうした“公的”後援は、事業に重みが加わる――あえて言えば江戸時代の藩侯のお墨付をもらうような感覚で、たとえ主催者が望まないにしても、周囲が必要とする。つまり芸術の世界は“お上”の権威を必要とする世界でもあると考えざるを得ない世界でもあるわけだ。
一方で協賛に加わってくださる機関・企業等からは、何かしらの経済的援助を与えていただいた。当集団も他の事業の主催者がしばしば用いる方法を踏襲して、図録を発行しそれに広告を掲載する方式で、協賛者を集めることにした。
しかし、2007年10月1日時点で、後援の可否も協賛の有無も、さらには参加者の多寡もすべては“予定調和”であり、実際の各種活動が本格化したのは、2008年1月に同人の顔ぶれが固定して、2月10日の初の全体会議以降である。
第1回会議では、発起人会の結成から各種の調査などの経過が報告され、各人が原則として新作・旧作にかかわらず2~3点ずつ出品するほか、小品各3点を拠出して大口の基金を寄せてくださった協賛者に贈る、各人がそれぞれ事務局の仕事の一部を支援することなどが決められた。基本資金にする作家の拠出金は、350万円の54%に相当する190万円を、事務局長を含む同人19人が、各10万円を負担するが実行委員会で決まっていた。

各作家の活動

展覧会での参加作家の活動の根本は、優れた作品を出品することだが、自らの手で運営する当集団のにあっては、各作家が応分の仕事をしなくてはならない。まず第一にPR、展示、図録制作の各担当者を数人ずつ決め、現地で配布するチラシの制作や、会場での展示の図上設計などを受け持った。次に課せられた仕事は、図録に協賛広告を出してくれるスポンサーの獲得であった。ノルマがあったわけではないが、各作家と事務局は2,3の例外を除いて最高で4本、最低1本の広告を集めた。ご好意を寄せてくださったのは、下記の方々である。改めて深い謝意を表する。

【協賛してくださった方々=順不同・敬称略】

ニューカラー写真印刷 思文閣 淡交社 京都花鳥館 PORTA 清水焼団地協同組合 紙の津久間 井筒企画 プレ-ベル 日本新薬 京都バレエ専門学校 ギャラリー16 東寺月桂冠 ギャラリー和田 川口美術 田中直染料店 染・清流館 カラーハウス 祇園辻利 食事処・伏見 漆器のアソベ 日本サルベージサービス 象彦 京都銀行 京都信用金庫 京都中央信用金庫 佐藤清代松商店 堤浅吉漆店 ホテル・グランヴィア京都 つむら工芸
L’AIR DE L’ART 福寿園 ▼特別協力=SGホールディングス 佐川急便

SGホールディングス・佐川急便の協力

広告募集と平行して、その他各種の支援を各方面にお願いしたが、その中で特に重要なのは作品輸送の問題だった。
参加作家が各3点出品すれば、総点数は54点になるが、それらをパリで展示する往復の費用は輸送会社の手を通せば数百万円になると予想された。試みに事務局長がある某運輸会社に見積もりを依頼したところ、詳細な内容は示されず概算で、1200万円ということであった。これは真面目な見積もりとは思えない(大体、美術品の輸送料は高すぎるという”苦情”が美術関係者から聞かれる。その主な理由は過剰に厳重な梱包をし、コストをはね上がらせているというものだが、その裏には、ここまで厳重にするのは運送作業が荒いからではないか。また材料費で鞘を稼いでいるのではないかという疑いがある)。とは言え、ここまで高くなくても、インターネットを使って各運輸会社の料金を試算してみると、作品の大きさ重さで大きく違ってくるが、最低に見積もって約500万円であった。そこで作家が個々に国際郵便で作品を会場に直接送りつける方式も考えた。これならば一人1点で大きなものは送れないが、往復約2万円ですみ、自己負担も可能である。安全性に就いては、事務局長が調査で渡仏した際に、ホテルに陶器・ガラス類を送って問題ないことを確かめたのは、前述通りである。
その一方で、村山明は広範囲な人脈を通じて、佐川急便株式会社の持株会社であるSG ホールディングス株式会社にメセナによる支援をお願いした。事務局ともども、長い期間をかけての交渉だったが、承諾いただけることとなり、12点組みの作品を含む全50件61点の作品は無事に京都~パリ間を往復した。作品は各作家が梱包して箱詰めし、それを佐川急便が一箇所で集荷して、特別仕立ての木箱に詰めてパリに送り、返送されると一箇所で引き取り、自宅集配と梱包の費用節減に協力した。
いずれにせよ、SG ホールディングスと佐川急便は、京都で生まれ育ち、美術館を経営するように美術に理解を持っていることから、京都の文化発信に特別の支援をいただいたもので、展覧会成就の最大の支援者である。

広報と渉外

展覧会の成否は入場者で決まるとも言われる。一概にそうとは言い切れないし、人が集まり過ぎて、ろくろく見られないとという事態もでる。しかし、観客が少ないより多いほうがよいのは当然である。しかし、パリでは別項の調査報告で述べているように、派手に広告しても市民は飛簡単には飛びつかない。それゆえ、京都の文化を発信するターゲットを絞ってPRしないと動員も叶わなければ、芸術家たちの参考にもならない。また現地でポスターの掲出には多額の費用がかかるうえ、多大の手間と労力がかかる。新聞等に記事掲載を依頼しても応えてもらえる可能性はゼロに近い(大体展覧会の予告記事など、ピカソの没後50年の回顧展でもなければ、無いかと思われる。勢いチラシの配布が主力になるが、これとてどこでどのようにするかについてさまざまな問題があり、無闇に配るわけには行かない)。
チラシ配布数による動員数の歩留まりは、1%がせいぜいと言われる。10万枚配布しても1000人しか動員できない勘定だ。そこで効率を高めるため、フランスがTresor National Vivant(生きた国宝)と呼ぶ、日本の重要無形文化財保持者(いわゆる人間国宝)にならったMaître d’art を中心に、学士院会員、・芸術院会員、美術・博物館長、美術団体幹部にターゲットを絞り、約200枚を第1次PR活動として関西日仏学館長の“紹介状”を添えて送った。さらに各方面から得た情報を元に、約50人に20枚ずつ配布し“口コミ”と共にPRしてもらうよう要請した。活動開始は四月中旬で、9月に開会式Vernissage への招待状発送まで、延3000枚のチラシと500通の文書を発送した。この中には会場の会場側が独自の資料でPRした分を含んでいる。
しかし、Maître d’artに送った47通のチラシやメッセージを封入した郵便は、殆どが記載宛名住所に見当たらないという理由で、2008年9月から2009年1月にかけて、小刻みに返送されて来た。Maître d’artの事務局に一括して送ったものだが、その住所はインターネットの公式ホームページに乗っていたもので、しかも何通かは届いている。一歩、学士院、芸術院にも同様の方法で送ったが、こちらはすべて配達されている。Maître d’art以外にも、パリ郊外在住の法人に送ったEMS(速達・書留)封書も「郵便局に受け取りに来ないから」という、信じられない理由で2度にわたって返送されている。フランスの郵便事業はどうなっているのかという疑問を持たざるを得ず、今後は日本からの直接PRは相当のリスクを覚悟しなくてはならないだろう。
情報を発信した相手のうちから、フランス学士院事務局、パリ市立近代美術館長、カルナヴァレ博物館長らから反応があったが、その他の装飾美術館、オルセー美術館はじめ有名美術館・博物館からの応答はなかった。それらのなかには紹介状つきの個人宛てのものもあったが、10余通のこのような通信のうち、何らかの応答があったのは皆無だった。フランス人特有の利害関係のない者、未知の者に冷淡な気風の現われであろうが、今後はこうした機関・個人には協力を期待できないのではないか。
日本大使館は、文化に就いて理解の深い政治家を通して外務省が動いてくれた事もあろうが、大変丁寧に支援してくれた。しかし、特別な年の特別な行事のため、特別な計らいがあったものと推察され、常にこのような好意を期待するのは、大使館の組織・機能から考えても無理であろう。

図録の製作

美術展覧会に図録は“必需品”である。小規模な個展・グループ展や経済的に作る余裕がない場合は別だが、鑑賞の記念になるだけでなく、文化史のドキュメントとして重要である。特に今回のような展覧会では、日本文化の広報の貴重な資料であり、同時に京都の美術印刷やデザインのレベルをフランスに知らせることにもなる。それだけに、本展の図録制作は広報や募金と同様な比重を置いた。
編集は基本方針を全体会議で決定し、加藤忠雄を専門委員に選んだ。加藤は印刷会社を選定し、印刷・製本価格やレイアウトの交渉に当たり、色校正や文章の校閲には同人が適時フォローした。
編集に当たってもっとも難問となったのは、日仏両国語の文章を載せなくてはならないことであった。詳細な作品解説や作者の経歴を入れれば、多くのページ数を要し、制作費が膨れ上がるばかりでなく、運搬に多くの経費と手間がかかる。そればかりでなく、工芸の用語や日本独特の習慣・感情表現などを、フランス人に十分理解してもらえるフランス語に移し替えるのは至難の業と言える。各方面に深い理解があり、正確で美しい日本語の使える人で、しかもフランス語を母国語同様に読み書き話せる人でないと、理解してもらえないどころか誤解を招く。しかし、そのような人がめったにいるわけでない。
作品の解説は、藤慶之・元京都新聞編集委員に執筆を御願いしたが。同氏は多くの京都の美術家と親交があり、作品をよく理解している人だが、それでも翻訳者にとっては難解な表現があった(藤氏は図録の試刷ができて校閲してもらう前に死去された)。そうしたところは英作文に長じている美術評論家に、英語だったらこのような表現になるという例を示してもらい、それをフランス語に転訳した。この結果、パリで仏文の作品解説が分らないと言う人はいなかった。
写真は1ページに一人の1人の作品1点を載せることにした。原則として一人が3点出品するのだから、全作品を載せようという意見もあったが、そうするとページ数を増やすか、写真を小さくするか、記事を削減しなくてはならない。そこで各作家が自薦の作品1点を1ページに掲載することにした。記事はすべてを写真の対抗面にまとめた。
印刷は京都関係の美術図録・図書印刷の経験に富み、作家・作品に就いての理解が深いニューカラー写真印刷(株)に委託して、色校正は2度行ったが、その都度各作家が同社に赴き、満足できる結果が得られ、パリでは陰影の微妙な“アヤ”がよく表現されているとの言う人が多数いた。発行部数は1,000部で、協賛者への配布など必要部数以外はすべてパリに送り、すべて配布し終えた。
サイズはA4版だが、これはパリで開かれている各種展覧会の図録としては、かなり大きい感じがする。それだけに写真に迫力が出て、記事も多く掲載できるが、サイズになれていないためか、扱いにくそうにする人も見られた。現地の個展で図録が発行されることは少ないが、作られたものを見ると天地・幅とも20cm程度のものが多かった。それだけに工芸京都の図録は“豪華版”のように受け取る人もいて、それが展覧会の格を高めていたと言える。

マスコミの協力

催事のPRでもっとも効果的なのはマスコミの協力だが、京都を発信する事業だから、まず京都新聞に協力をお願いした。2007年秋から年末にかけて村山明、塚本樹が各2回、今井政之、鈴木雅也、加藤忠雄が各1回、同社を訪ねて、増田正蔵・前社長らと会談し、快諾を得た。その結果、2008年1月10日の1面にパリ開催紹介記事、10月28日の第3社会面に国内披露展の開催記事、11月3日の1面コラム「梵語」の評論、1月18日のパリ展開催記事、2009年1月6日の帰国展開催記事を掲載した。ただしパリ展開催記事は、同社にはパリ支局がないため、共同通信の配信による。この配信は産経新聞、西日本新聞、山陽新聞など確認できただけでも全国の7社で掲載された。朝日新聞もこの配信が掲載されていたという情報があるが、同社のデータベースには載っていない。また、同社パリ支局は開催一ヶ月余前の取材依頼に対し、折り返し多忙を理由にできないとの返事があった。当然開催期間中の取材はなかった。
パリ展では、このほか毎日新聞が独自取材をし、11月18日付で掲載された。国内披露展では朝日新聞が地方版に予告記事を掲載した。
電波関係では、国内披露展ではNHKが3回、ローカル・ニュースとして報道したが(「国内披露の「京都工芸の精華展と「帰国展」の項参照」、パリでは開催5日前に村山・塚本が現地支局を訪問して取材依頼したが、京都放送局の要請がないとしないという。「要請があろうがなかろうが、報道価値があると思われるものは取材するのが報道の本道ではないか」の問いかけには、一応は肯定したものの結局取材はなかった。民放に関しては支局のある朝日放送に日本から取材を依頼しておき、現地では会期中に連絡したが、開催されていることすら知らなかった。
現地の新聞等には全く取り上げられなかった。セーヴル国立陶磁博物館主任学芸員クリスチーヌ・シミズさんの話では、パリの展覧会は通常3ヶ月程度は行われるので、新聞記者は1ヶ月たったころに、評判高いものの取材にかかるから、会期が一ヶ月以下の展覧会は、記者によほど強力なコネがあるか、爆発的な話題があるかしないと、記事にはならないとの事で、工芸京都の展覧会はまさにそのケースである。
しかし、根本的には工芸美術に対する認識の不足がある。これはマスコミだけの責任ではなく、美術界・学会・学会・一般社会にも言えるであろう。この状況を改善するには、先ず“工芸美術”が社会にいかに貢献しているかを、実例を持ってアピールして行くことが不可欠だろう。
最後に今回接触のあったマスコミ関係者の何人かに「書いてやる(報道してやる)」といった、前々世紀的な“ブン屋意識”がちらついていた。一方で美術界にも「報道されるのが当然」という空気がないでもない。このようなギャップは文化発展を阻害すると感じられた。改革の具体案を述べるのはこのレポートの眼目ではないが、改めて一種の“不条理”とも言えるような状況に気付かされたのは、この展覧会を開催した意義の一つに数えられてよいだろうと思う。

パリでの展観

パリでの展観に際して、11月10日に村山明と事務局長が、準備のために先発した。 11区のRue de Chaligny のアパルトマン・ホテルに現地本部(事務局)を開設した。それから開会まで、日本大使館や報道機関、招待先への挨拶周りや、展観のために必要な諸小道具の仕入れに当たった。小道具が芳名帖や開設パネル掲出用の粘着・接着剤、市内地図、太字のマーカーなど多岐にわたったが、会期中には思いがけない道具類が必要になり、その中には作品の窪みに落ちた髪の毛を吹き飛ばす、エアブラシのようなものまで含まれている。これらの小道具は現地本部近くのDIY店で調達できた。
15日には、今井政之・眞正、志村広光、加藤忠雄、加藤丈尋、向井弘子が到着し、16日正午から陳列が行われた。作品は佐川急便の手で、各作家が自身で梱包した箱を、大きな木箱に収納し、運ばれてきていた(一部には例外的に佐川急便で梱包されたものもある)。各作家の自主梱包は輸送経費の節減のためと、梱包技術の向上のためで、同人の総意で決められた。
開梱は同人(事務局長を除く)と会場側の計11人で行われた。陳列には会場側に常備の展示台・テーブルを利用したが、台・テーブルにかける布は新規購入した。会場側のスタッフが作品移動に協力してくれたので、臨時の人手を雇う必要も無く経費節減に貢献してくれた。これは例外的な活動で、展示される作品が価値(価格ではない)の高いものであるという認識があり、陳列には自ら当たらなくてはという責任感の表れとして、感謝の他はない。
17日は午後6時からオープニングvernissageが開かれ、招待客を中心に、日仏両国の約120人が参加した(150人説もある)。このため、レセプション費用を1000ユーロ(約130000円)追加しなくてはならなかった。日本大使館から渡辺文化担当公使が出席(大使は本国召還中)、祝辞を述べられた。大使館が後援する事業で、大使・公使が開会式に出席することは滅多にないという。集団からは今井代表が「京都文化を知ってもらい、交流を深めたい」と挨拶、来賓の“フランス版人間国宝”イザベル・エメリック国立高等工芸学校教授から歓迎の辞があった。主な参加者としてはクリスティーヌ・シミズ国立陶磁博物館主任学芸員、ジェロー・ド・ラットゥール(市立)セルヌスキー美術館友の会長、京都パリ友情盟約の仲介者粟津正蔵柔道師範、版画家ジェラ-ル・デスカンら多数が紹介されたが、名刺交換が少なかったので正確な氏名・肩書きは残っていない。
以後17日間(日曜は休館)に約1000人の来館者があり、芳名録(ノート)には300人の署名と感想の記入があった。Magnifique(素晴らしい)extraordinaire(飛びぬけている)などの最高級の賛辞をはじめ、京都の工芸に対する関心が綴られている。もちろん事故・トラブルの類は一切なかった。ただ、会場に隣接して多目的ホールがあり、夜に行われる演奏会のリハーサルの音が漏れて、静謐を乱すこともあった。しかしパリジャンは気にしない様子だった。
撤収は12月5日にパリ入りした伯耆正一と村田好謙が、7日に会場側の協力を得て梱包と箱詰めを行い、佐川急便の現地代理店に引き継いだ。開梱の時、箱に詰められた状態を記録しておいたので、スムーズに確実に行われた。

会場の状況

会場のEspace Bertin Poirée(エスパース・ベルタン・ポワレ)は、コンコルド広場からチュイルリー公園、ルーヴル美術館、パリ市役所を経過してサンタントワーヌ通りからバスティーユ広場に達する、パリ最長の直線道路リヴォリ通りをルーヴル美術館東端から約500m東のベルタン・ポワレ通りをセーヌ川の方(南)へ曲がって100mほどのところに位置する、天理教を母体とする「天理日仏文化協会」が借りているビルの中にある。
リヴォリ通りはパリの中心部の見抜き通りの一つだが、ベルタン・ポワレ通りはさして人通りは多くない。しかし、メトロのシャトレ駅のすぐそばで、足の便はよい。また、近辺には大ショッピング・センターである「フォラム・デザール」や市役所をはじめデパートや各種センターなど重要施設が多いから、何かのついでの来観も期待できる位置にある。
このようなロケーションの、17世紀の建築と推定される建物の地階に設けられている大小3室の展示室と大小二つの多目的ホールの総称が「エスパース・ベルタン・ポワレ」で、建物の壁は石であるが床はホールがフローリング、展示室はアスファルト様の“舗装”がされている。本展のためには小多目的ホールを除く全スペース(約360㎡)を借用した。
入口を入るとホールがあり、地階への階段を降りると、突き当りが小ホールで、階段の左手、小ホールと並行する形でメイン展示室ガあり、その南側に中展示室、北側(階段からは奥手にあたる)に小展示室、大展示室の左手に長方形の大ホールがある。大ホールへは大展示室を通過しないと行けない。
本展覧会では各作家のメイン立体作品を展示し、壁面作品は大陳列室に展示した。小展示室(約20㎡)は控え室に充てた。しかし、伊砂利彦の作品12点は、壁面のスペースの十分にある大ホールの長い壁面に、ほとんど隙間なく並べて陳列した。
大中の陳列室は壁面陳列のほか、高さ60~90cmの展示台とテーブルも置いて、比較的小品に属する作品を展示した。
大ホールの陳列は、壁際にテーブルを並べ、ベージュ地の布を購入して裁断して掛け、その上に直接、作品を置いた。テーブルの高さは約80cmで、背が高い人が多い西洋人の中には、身を屈めて窮屈そうに見る人もかなりいた。
会場の入口にはデスクを置き、来観者の署名と感想を記入してもらうノートを置いた。著名・感想の記入は正確に数えられるものは294件で、入場者の約4人に1人が記入してくれたことになる。
照明は、ブロックを集中的に照らすが、個々の作品にスポットライトを当てるようにすることも可能で、今回もいくつかの作品にはスポット照明を当てた(照明担当は京都市立芸大出身の父がフランス人、母が日本人のお嬢さんだった)。

国内披露の「京都工芸の精華展」と「帰国展」

パリに発信する京都工芸の内容がどのようなものかを、発信元である京都の市民をはじめ、広い層の人たちに見てもらうことは、事業の意義を知ってもらい有形無形の支援を得るため、また国際文化交流のために必要である。
このため、2008年10月27日(月)から31日(金)まで京都市中京区山伏山町、京都文化センターで、同センターとの共催により、「京都工芸の精華展」と題して開催し、パリ展出品作品61点すべてを展示した。
朝日新聞(京都版)は予告記事を掲載、京都新聞は開催日に取材し報道したのに加えて、NHKが27~28日にかけて、ニュースとして3回オンエアした。このPR効果は抜群で、少なく見積もって5日間に約1000人が来観した。1日平均200人という数字は、新聞社や放送局が主催に加わって、大掛かりな宣伝をする展覧会以外では、なかなか出ない数字である。芳名録への署名は490人に達したが、通常の各種展覧会の入場者で署名するのは、全体の3分の1から4分の1がせいぜいだから、実際の来観者数はあるいは1500人を超していたかも知れない。ちなみに専従の受付・監視員を置かなかったので、正確な人数はチェックしていない。
この盛況は、報道やPRだけで人を集められるものではない。展覧会の意義と内容が理解され、出品作家の知名度が高かかったことによるものと考えられる。カンパの要請に対し協力された方が70余人おられ、1000円以上寄せられた方には、爾後の協力の期待を込めて、パリで配る図録(原価1450円)を贈呈したが、カンパが寄せられた事も展覧会の意義を理解されていたからと考えられる。
「帰国展」は2009年1月5日(月)から14日(水)までの10日間、京都市四条通富小路に新築された、製茶業の株式会社「福寿園」本社ビルの6・7階展示スペースで開催した。同社の要請による共催で、展示スペースの“柿落とし”の催しであり、各作家がパリ展に出品した作品のうち、図録に掲載されている作品1点を展示した。ほかに「茶文化工芸展」を併催、茶道具を中心にした小品約100点を展示し、希望者には販売したが収益はほとんど無かった。 来館者はPRの機関が短く、方法もチラシだけだったので、700人弱であった。
両展覧会とも、多くの一般市民が芸術としての工芸に興味と関心を持ち、この展覧会で認識と愛着を一層深めてもらえたことが伺える。その一方で、美術家の来観は少なかった。これは、美術家同志に所属会派や部門を超えての交流が少なく、個人的なつながり、あるいは利害得失に関係がない限り、他会派・他分野の関心を示さない、日本美術界の風潮によるものかと考えられる。京都にはかつて「京都美術懇話会」という組織があり、年に1度ではあるが園遊会を開いて、会員相互の交流に資していた。それとても参加資格を制限したり、理事会の恣意的な運営が行われたり、真に美術家のものとは言い難いものではあったが、現在はそんな機会すらない。美術家同志の連帯を強めなくてはならない事を、国内展を通じて痛感させられた。今後“京都文化”が海外に発展しようとするなら、ジャンルや党派を超えた文化人・アーティストの普段の交流が不可欠であろう。


展覧会の成果

展覧会には、単なる発表欲または存在を示そうという欲求、経済的な目的など開催する動機・理由はさまざまだが、今回の「工芸京都」の展覧会は自らの存在を示さなくてはならないという、一種の義務感が根底にある。
京都の文化とか日本の工芸とかが、世界で卓越したものと評価されているように思われていて、事実そうだと言えるにしても、その“事実”は、極く一部の人たちの間だけの事であって、京都市民あるいは日本人が思っているほど、世界の日本文化に対する認識や関心の度は高くない。個々の作家が評価されることはあっても、文化なり工芸なりの全体像が理解されているとは言い難い。このことは身贔屓や過大評価を排し、冷静に事態を直視する必要がある。
「工芸京都」のパリ展は、まさに京都の工芸と文化の存在と価値を顕示し、ステータスを高めるためのものであり、その目的はある程度は達せられた。来館者の大部分は一般市民で、これまで京都文化に縁の薄い人たちである。会期の終わりごろには、何かの理由でたまたま鑑賞した知人に勧められてという人が、会場で配ったチラシを手にして来場したケースが事務局の知る限りで8件あり、署名ノートに感想を記入した人も3人いた。大規模ではないが確実に、パリ市民の中に京都文化を植えつけた。今後同様の展観が行われたら、これらの人たちが核になって、さらに多くの京都文化の理解者が増えて行くと期待できる。
ストラスブールで陶芸の教師をしている、サラ・サール(女性)は、今井政之の作品に啓発され「京都の陶芸の高度な技術を学びたい」と、今井の下での研修を希望、今井に身元引き受けを要請、今井も日常生活に必要な最低限の日本語を学ぶことなどいくつかの条件をつけて承諾した。サールは2010年に来日の予定である。また、イザベル・エメリックは、2009年4月に学生を引率して来洛するが、その際には鈴木雅也・村田好謙・望月重延のアトリエ探訪を希望している。その内の一人、村田はエメリックと面談し、来訪を快諾している。このように民間の国際文化交流の端緒が開かれたと言えよう。後に続く人のための道筋がつけられたとも言える。
出品作品の購入希望は約10件あったが、展覧会用として無税で輸出したためすべて販売はできず、価格を告げることもできなかったが、然るべき手順を踏んで輸出すれば売れる可能性が確認できた。少なくとも京都の工芸が市民に愛好されることは疑いない。
来観した在留邦人の中には「これでフランス人に胸を張って誇れる文化が日本にあることを実感できた。日本の文化といえば浮世絵とマンガしか知らないフランス人が大勢いるから、もっと日本文化を発信するべきだ」という感想を述べた人や「すばらしい作品ばかりで感動しました:日本人として誇りたい気持ちにさせられました」とノートに書き付けた人もいる。このように在留邦人により、京都文化がパリから広く西欧に浸透してゆくことが期待できる。
図録は500部持ち込み、ノートに署名・記入してくれた人には贈呈したが、誰からも大変喜ばれ「この本をもとにして日本文化を勉強する」という意味のことを述べた人も、事務局の知る限りでも10余人いた。


総括

にわかに立ち上げた小グループでの短期間の展覧会が、一気にパリの人たちに影響を及ぼす事など、無理もいいところである。しかも、政府や地方自治体や公共団体、あるいは大企業の支援は、経済・便宜提供両面で甚だ薄いものであった。ことにフランス側の公共機関からの援助・支援は、関西日仏学館以外全く無く、いわば“徒手空拳”で行ったようなものである。それなのに、ともかく一応の成果が収められたのは、人と人との繋がりであった。図録広告の95%は作家の日常のコネによって集められたもので、これらスポンサーの好意が無かったら、どんな形でも実行は不能だった。そしてSGホールディングス株式会社とその傘下の各会社の好意にあふれた支援は、展覧会の内容を豊かにし、無事終了させることができた。共に深い感謝と敬意を表する。もちろん同人の熱意と、これまでに築いてきた地歩があればこそ、ご支援くださった方々も事業の意義を理解し、快く応じていただけたものと思われる。
このことは、会場側の天理日仏文化協会も同様である。同協会に宗教色は全くないが、職員諸氏の展覧会に対する協力ぶりは“ひのきしん”を思わせるものがあった。また会場監視に当たってもらった安蔵博は、来観者への応接・通訳、雑用までこなして、考えようによっては同人以上の働きだったと言えよう。
結論的に言えることは、京都の文化が海外に知られる度合いが低いのは、発信しないからであり、たまに発信があったとしても、インパクトに欠け、事業運営が創意と工夫が不足していたからではないか。発信しようという側に熱意があれば、たかだか18人のグループでも相当のことができることが証明された。そのやり方のノウハウは、要望があれば伝授するに吝かでない。しかし、薄くとも広い物的・精心的支援を取り付けられなければ、実行は不可能である。そして、公的機関や報道機関は頼りにならないという覚悟はしておかなくてはならない。マスコミについて言えば、パリでの日本の各社の取材は毎日新聞と共同通信社の2社だけだった。それでも共同通信により、京都新聞・産経新聞・西日本新聞・山陽新聞・下野新聞など未確認を含めば10社の紙面に記事が掲載され、事業が行われたことがかなり広い範囲で知られた。しかしフランスのマスコミはついに取材がなかった。これはパリでの観客動員に大きなマイナスである。世界各国、文化ニュースは取材する側に“書いてやる”という“上から目線”の傾向があると思われ、このようなマスコミへの対策は今後の課題である。
広い範囲の協力を求めるからには、作家も社会に奉仕することを忘れてはならない。国や自治体に文化への支援を求めるのは良いが、文化も多種多様で、住民や国民に支援されないような文化に、誰が税金を使っての支援に賛意を示すだろうか。今回の「工芸京都」に公的援助が全く無かったのも、文化に対する市民のコンセンサスが無いためで、いわゆる文化人やアーティストの、文化・芸術の社会性についての発想が余りにも観念的で固定化していて、活動や作品が“一般”のものになっていないことの表れとも考えられる。そのような理由から、この展覧会は、作家と社会の関係に双方の意識改革が必要だと、考えさせられる事業だった。


(文責・事務局  文中敬称略)